1920年代のギリシャ政治
文 黒田努
1999/07/10

1920年11月、首相ヴェニゼロスの自由党は国政選挙で大敗北を喫した。彼が3ヶ月前にセーブル条約を勝ち取った時にはおそらく予期していなかったこの結果は、選挙直前に国王アレクサンドロスが事故死して、後継者問題が選挙の争点となったことと深く結びついていたが、より根源的には長い戦争に倦み疲れた国民が、依然としてトルコとの戦争を続ける自由党を嫌悪したことによると言えよう。

アレクサンドロスの父コンスタンディノスが後継国王となった。彼はかつてギリシャの大戦参加を拒んで、英仏艦隊によって放逐されるという経歴を持ち、ヴェニゼロスとは敵対関係にあった。ヴェニゼロスは外国に旅立った。コンスタンディノスとその支持者たちは直ちに、軍・国家機構からヴェニゼロス派を追放した。他方、小アジアでは遠謀深慮もなく漫然と戦争を継続し、1922年9月の大敗北の責任を取らされるという貧乏くじを引くことになった。

ヴェニゼロス派だが小アジア戦線に残り、退却戦で英雄的活躍を見せたプラスティラス大佐は、小アジア対岸のミティリニ(レズヴォス)島で反乱軍を組織し、海路ピレウスに上って国王を追放し、その取り巻きを逮捕した。彼は「革命の長」として独裁的権力を手にした。もっとも彼の権力は傍目で見るよりずっと限定されていた。彼は穏健な形による自由主義体制への移行を望んでおり、君主制存続まで視野に入れていたが、革命的熱狂の中で急進派の意見に押されて、コンスタンディノスの取り巻き(六人組)を軍法会議にかけて処刑するというところまで突き進んでしまった。

ただ、この時点ではギリシャで君主制が廃止されるかどうか、まだ微妙な状況にあった。アレクサンドロスの兄ゲオルギオスが国王に就任し、プラスティラス政権に恭順の意を示していた。その一方で、急進的な共和主義者であるパンガロス将軍が軍建て直しの功績から軍内部で力を強めていた。一挙に状況を共和制樹立に押しやったのは、1923年10月の軍の反乱事件であった。本質的には、この事件は純粋な軍内部の派閥争いの発展したものであったが、王党派の巻き返しとして解釈された(1)。反乱は短期間のうちに鎮圧され、その過程でコンディリス、パンガロス、オトネオスといった退役・現役の軍上層部の面々が急速に政治的発言力を得ていくことになる。1923年12月16日の憲法制定議会選挙は、反ヴェニゼロス陣営が棄権戦術を取ったため、自由党とその分党が圧倒的な勝利を収めた。1924年4月の国民投票には反ヴェニゼロス派も参加したが、約7割の賛成によって君主制廃止が決議され、第2共和制が成立した。

(1) 反乱事件の末期、王党派の親玉と目されていた政治家メタクサス(後の独裁者)が国外に逃亡したことは、この事件が王党派の反乱であったという印象を強めるが、彼が事件の中心人物であったかどうかは疑わしい。むしろ、この事件を口実に迫害を受けることを彼は恐れたのであろう。少なくとも反乱事件の主要な原因の一つはパンガロス派将校たちの専横ぶりにあり、様々な政治的立場を持つ将校たちが反乱に参加したのである。ただし、国王ゲオルギオスが反乱計画を事前に知っていた可能性は否定できない。

体制問題が片付くと、肝心のヴェニゼロスを欠くヴェニゼロス陣営では内部抗争が始まった。左派のパパナスタシウ政権、中道のソフリス政権、右派のミハラコプロス政権と短命政権が続いた。その一方で、コンディリスやパンガロスらヴェニゼロス派将校上がりの政治家たちは、権威主義的傾向を強めていく。

1925年6月、パンガロスが先手を打ち、無血クーデタを成功させた。慌てた議会は彼に信任決議を与えるという自殺行為に出た。1926年1月、パンガロスは独裁官就任を宣言し、4月の無競争の選挙で大統領に選出された。彼は今やヴェニゼロス陣営と反ヴェニゼロス陣営の積年の恨みつらみを超越する調停者を自任していた。

しかし、実際には、パンガロスは両陣営を超越するというよりも両陣営から浮き上がり孤立していたと言うべきであろう。パンガロスは自分の意のままになる軍事組織「共和大隊」を設立し重用したが、それは彼を軍本体から遊離させることにつながった。パンガロス体制のそもそもの初めから、何度も軍の反乱計画が発覚した。ばらばらだった政治家たちも次第に反パンガロスでまとまってゆき、ついに1926年8月、退役将校コンディリスの主導で「共和大隊」の一部が反体制側に寝返り、パンガロス独裁政権は崩壊した。

コンディリスは政界に確固とした基盤を持たなかったが、再び政治家たちが近視眼的な争いを始めたことから漁夫の利を得て首相に選ばれた。1926年11月に国会選挙が実施され、両陣営の勢力が拮抗するという結果になった。無色の老政治家ザイミスを首班とする超党派内閣が作られた。この内閣の下で1924年以来宙ぶらりんの状態にあった憲法が採択され、1923年の反乱事件で職を失った反ヴェニゼロス派の将校たちの多くが軍籍に復帰した。

1927年4月、ヴェニゼロスが帰国した。彼は政界には戻らないことを繰り返し強調したが、ヴェニゼロス陣営の政治家たちは結局彼の下に結集した。後継者を自任する派閥の領袖たちは、カリスマ性においても政治指導者としての資質においてもヴェニゼロスにまったく太刀打ちできないことを悟ったのである。1928年7月ヴェニゼロス内閣が成立した。西欧での外交家としての輝かしい実績を携えて帰国したかつての大政治家に、国民は過度の期待感をふくらませ、翌月の総選挙はヴェニゼロス陣営の地滑り的大勝利に終わった。こうして、戦間期ギリシャのつかの間の安定期、「ヴェニゼロスの4年間」が始まった。

参考資料


この文章は、1999年7月、東欧史に関する大学院のゼミで筆者が発表を行ったときのレジュメの一部を若干手直ししたものである。

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